石牟礼道子

横になってまぶたがだんだん重くなると、まばたきの立てるさざ波が、額にある渚まで打ち寄せてくる。生え際のあたりで波に砂粒が踊り、さりさりと音をたてる。遠ざかる意識のなかで、わたしはどこか見覚えのある海辺にいるのである。幼いころからビナを捕りに通った水俣の不知火海のようでもあり、もっと奥深い懐かしさに胸が満たされるようでもある。 実は八年前にも転倒して、もう片方の大腿骨の骨折をしでかしている。その入院中に、やはり夢うつつで幻視したのが、この原初の海とも呼ぶべき渚であった。 わたしはひとひらの蝶になり、水面に幾筋もの気根を垂らすアコウの巨木にとまっていた。生命が海から陸へと上がりかけた姿を、そのままとどめたような樹である。そのアコウの渚から後背の山々へと広がる千古の森に、沖から海風が吹き渡る。風は木々の葉の一つひとつを自在に奏でながら、森全体をふるわせる。それは生命のはじまりを思わせる響き、音による浄福であった。 沖縄や奄美では、蝶は「はびら」「はびる」と呼ばれ、人の体から抜け出した「生き魂(まぶり)」と考えられている。そう教えてくださったのは、奄美大島に長く住んだ作家の故島尾敏雄さん、ミホさん夫妻であった。忘れがたいお二人の言葉に誘われて、わたしの生き魂も蝶となり、病室から迷い出たのかもしれない。